第1章「檻の中の深窓の佳人」
重厚な遮光カーテンの隙間から差し込む陽光すら、この部屋ではどこか冷たく感じられた。
白崎家のお屋敷の二階にあるアナタの私室は、選び抜かれた一級品の家具や調度品で満たされている。けれど、アナタにとってここは優雅な自室などではなく、一歩も外へ出られない「檻」そのものだった。
ふと窓の下を見下ろせば、広い庭園のあちこちに黒いスーツを着た屈強な男たちが立っている。彼らの懐に潜む不穏な鉄の重みを想像するだけで、アナタは眩暈にも似た嫌悪感に襲われる。
幼い頃から、この「家柄」のせいで友達は一人もできなかった。「ヤクザの娘」というレッテルは、周囲の子供たちを恐怖で遠ざけ、アナタを徹底的な孤独の底へと突き落とした。どれだけ望んでも、普通の女の子のような自由な青春も、平穏な日常も手に入らない。血と暴力の匂いがこびりついたこの世界が、アナタは心の底から大嫌いだった。
「――お嬢」
不意に背後からかけられた低く落ち着いた声に、アナタの胸が跳ねる。
振り返ると、部屋の入り口に彼――保志満櫻会の若頭であり、幼い頃からずっとアナタの護衛を務めているカレが立っていた。
仕立ての良いスーツを隙なく着こなし、切れ上がった瞳には理性の光を宿している。寡黙で、滅多に感情を表に出さない人。けれど、幼少期にアナタが泣きじゃくっていた時から、どんな時も安全を最優先にし、その歩幅に合わせて静かに見守ってくれる唯一無二の存在だった。裏社会を憎むアナタが、皮肉にもその世界の中心にいるカレにだけは、秘かな恋心を抱いてしまっている。
「お出かけの時間です。車を用意させました」
カレは恭しく一礼するが、その位置はいつも決まって、アナタからちょうど三歩離れた場所だった。決してそれ以上は近づかないという、見えない境界線。
「……行きたくないわ」
アナタは小さく溜息をつき、あえてカレの目をじっと見つめた。
「どこへ行くにも黒塗りの車、周囲には鋭い目つきの男たち。大学の講義を一つ受けるだけで、どうしてあんな大ごとにならなければいけないの? 私、ただ普通の女の子みたいに、自分の足で街を歩いてみたいだけなのに」
カレは表情一つ変えず、静かに目を伏せる。
「お嬢の身の安全を守るのが、俺の役目ですから。保志満櫻会の令嬢が一人で歩くなど、警備の観点からも許されません」
「その『お嬢』って呼び方も嫌! ……せめて名前で呼んでよ」
思わず声を尖らせてしまったアナタに、カレの眉が微かにピクリと動いた。
アナタは衝動を抑えきれず、カレとの「三歩の距離」を自ら踏み越えて一歩近づく。
「ねえ、あなたも私のことを『守るべき道具』か何かだと思っているの? ……それとも」
少しだけ背伸びをして、カレの胸元に手を伸ばす。ほんの少し曲がっていたカレのネクタイを整えるふりをしながら、心音を確かめるように指先を這わせた。幼い頃からずっと見上げてきたその胸板は、今や厚く、男らしく逞しい。カレの硬質な瞳を覗き込み、囁く。
「私のこと、少しは一人の女性として見てくれたりしないの……?」
至近距離で交わる視線。
その瞬間、カレの端正な顔立ちが、見たこともないほど切なく歪んだ。いつも冷静沈着なカレの瞳の奥で、激しい熱を帯びた「男の目」が、アナタを捕らえて離さない。
それは、普段の厳しい理性が一瞬で溶けてしまいそうなほど、深く、ただ一途にアナタだけを求めている情熱の光だった。カレの胸の鼓動が急激に速まり、お互いの吐息が触れ合いそうな距離で、世界が止まったかのような錯覚に陥る。カレもまた、アナタを誰よりも深く愛しているのだと、肌に伝わる熱が切ないほどに証明していた。
しかし、それもほんの一瞬の出来事だった。
「――お嬢」
ハッと我に返ったように、カレはアナタの手を優しく、けれど拒絶の意志を込めて引き離した。自らの理性を引き絞るように、その拳が痛いほど握り締められている。すぐにいつもの鉄の仮面を被り、一歩下がって頭を下げた。
「……俺は、組にすべてを捧げると誓った身です。お嬢は、俺が命に代えても守るべき対象としか見ていません。それ以上の感情を抱くことは、断じてありません」
感情を一切排した、冷徹なまでの敬語。
自分を厳しく律し、極道の若頭としての筋を通そうとするカレの、精一杯の「拒絶」だった。
(どうして……。そんなに哀しい目で私を見るくせに)
アナタは、カレのこれまでの生い立ちを誰よりもよく知っていた。
幼い頃、激しい抗争の巻き添えで両親を亡くし、孤独な孤児となってしまったカレ。そんなカレを拾い上げたのが、アナタの父である組長の白崎だった。
最初は、まだ幼かったアナタの遊び相手や、年の離れた兄替わりになればという父の気まぐれだったはずだ。けれどカレは生まれつき頭が良く、どこまでも誠実だった。父が試しにと任せた裏社会の仕事を、カレはその明晰な頭脳と手腕で完璧にこなしてみせた。そうして若くして実力を証明し、階段を駆け上がったカレは、今や組の誰もが認める若頭にまで上り詰めたのだ。――少し先輩である「藤堂」という男だけは、いまだにカレを敵視し、その躍進を苦々しく思っているようだけれど。
誰よりも裏社会の残酷さを身に染みて知っているからこそ、カレはアナタにその血の匂いを触れさせたくないのだ。
若頭という重責を背負いながら、己の恋心を鉄の理性の下に完璧に押し殺す。それがアナタをこの汚れた世界に巻き込むまいとする、カレなりのあまりにも不器用で、命がけの誠実さだと分かっているからこそ、嫌いになることなんてできるはずがなかった。
届きそうで届かないカレへの想いが胸を締め付け、アナタは痛む心を隠すように、ただ静かに俯くことしかできなかった。
第2章「余命と抗争、そして断絶」
平穏に見えた檻の日常は、あまりにも突然に、そして残酷に崩れ去った。
お屋敷の奥深くにある、厳かな和室。手入れの行き届いた中庭を望むその場所に、アナタは父であり、櫻会の組長である白崎に呼び出されていた。
上座に座る父の顔色は、ここ数ヶ月で急激に土気を帯び、かつて裏社会を震撼させた圧倒的な威厳の影に、隠しきれない衰えが滲んでいる。
「――お嬢、お連れいたしました」
襖を開け、アナタを一歩先に行かせてから恭しく一礼したのはカレだった。カレはいつものようにアナタの斜め後ろ、影のように静かに控える。
「座れ」
父の低く掠れた声が、室内の空気を重く沈める。アナタが静かに畳に腰を下ろすと、父は深く息を吐き出し、信じられない言葉を口にした。
「俺の命は、持ってあと数ヶ月だ。医者からは末期のがんだと告げられた」
「……っ、お父様……?」
衝撃のあまり、アナタの視界が歪む。どれだけ嫌悪していても、唯一の肉親である父の死の宣告だった。
動揺して言葉を失うアナタの斜め後ろで、カレの身体が微かに強張るのが気配で伝わってくる。カレにとっても、孤独だった自分を拾い、若頭にまで育て上げてくれた恩人の余命宣告なのだ。しかしカレは、決して取り乱すことを自分に許さない。
「俺が死ねば、長年の宿敵である龍田組が必ず仕掛けてくる。櫻会は血の雨にさらされるだろう」
父は冷徹に、けれどその瞳に苦渋をにじませてアナタを見つめた。
「俺は、お前をその修羅場に巻き込みたくない。お前の母のようにはさせん。……白崎の血を引くお前をカタギとして守るため、大手財閥の傘下である『東条グループ』の御曹司との縁談を進めることにした」
「縁談……? そんな、急に言われても……!」
「お前がこの世界を嫌っていることは痛いほど知っている。財閥に嫁げば、二度と極道の血に怯える必要のない、お前が望んだ平穏な『普通の暮らし』が手に入る。これが、父親としてお前にしてやれる最後の仕事だ」
それは、裏社会からアナタを完全に切り離し、安全な光の世界へ逃がすための、父なりの歪んだ愛情だった。
けれど、アナタの心は激しく拒絶を叫んでいた。普通の暮らしを望んでいたはずなのに、なぜこんなにも胸が引き裂かれそうに痛むのか。
アナタは縋るような思いで、後ろに控えるカレを振り返った。
(ねえ、あなたは何とも思わないの……? 私が、他の男の人のものになってしまうのに)
心の悲鳴を瞳に込めてカレを見つめる。
カレは――まっすぐにアナタを見返していた。その端正な横顔は、大理石のように冷たく固まっていた。
「保志満櫻会の若頭として、俺からもお願い申し上げます」
カレの声は、驚くほど淡々と、そして冷酷に響いた。
「お嬢がこの世界の泥を被る必要はございません。組長が命がけで用意してくださる光の道を、どうかお進みください。それが、俺たちの願いです」
「……!」
カレの言葉は、父の決定よりも深く、アナタの胸を抉った。
またしても、カレは「若頭」としての仮面を被り、アナタを突き放したのだ。カレがどれほどアナタを愛していても、カレの「極道としての覚悟」は、アナタを光の世界へ送り出すこと以外を許さない。
カレの拒絶に絶望し、アナタがその場を飛び出すように立ち去った後――。
和室には、組長とカレの二人だけが残されていた。
「……。お前には酷な役目を押し付けたな」
父・白崎が、静かにカレの本名を呼ぶ。
その瞬間、カレの鉄の仮面が崩れ、苦悶に満ちた表情が露わになった。カレは畳に両手を突き、深く頭を垂れる。その拳は、爪が皮膚に食い込んで血が凝固するほどに強く握り締められていた。
「いいえ。……お嬢がこれ以上、血の匂いに怯えなくて済むのなら、俺の心など、いくらでも引き裂かれて構いません」
「それでいい。お前の頭脳と誠実さには信頼を置いている。だが、組内も一枚岩ではない」
白崎は目を細め、険しい表情を浮かべた。
「お前が若頭に据えられたことを面白く思っていない藤堂たちが、龍田組との緊張に乗じて、不穏な動きを見せている。俺が死ねば、奴らは真っ先にお前とお嬢を狙うだろう」
「兄貴の動向は、すでに網を張って警戒しております。組長に万が一のことがあろうと、お嬢の身の安全だけは、この命に代えても守り抜いてみせます」
カレの声には、悲痛なまでの決意が籠もっていた。
自分の恋心も、男としての独占欲も、すべてを殺してアナタの幸せを願うカレ。しかし、その裏で、組内を二分する暗雲と宿敵の影が、確実に二人を逃げ場のない破滅へと追い詰めようとしていた。
第3章「星見ヶ岬、最後の一夜」
白崎家のお屋敷の一角に、豪奢な白無垢や婚礼衣装のカタログが並べられていく。
それらはすべて、アナタが望みもしない財閥の御曹司との、政略結婚の準備のために用意されたものだった。父の体調は日に日に悪化し、それに伴って縁談の日取りは残酷なほどの速さで進められていく。
婚礼を明日に控えたその夜。
激しい雨がお屋敷の窓を叩く中、アナタはカレに「最後の願い」を告げた。婚礼前夜の外出など、極道の規律としても、警備の観点からも決して許されることではない。しかし、カレは若頭としての立場を捨て、アナタの手を取って車を走らせた。
行き先は、幼い頃に一度だけ、父に連れてきてもらった想い出の場所――『星見ヶ岬の別荘』だった。
嵐の海を見下ろす静まり返った別荘の室内に、波の音が遠く響いている。
カレはいつもの仕立ての良い上着を脱ぎ捨て、白いシャツの襟元を緩めていた。カレの瞳にあるのは、いつもの若頭としての冷徹な光ではない。そこには、幼い頃にアナタの「お兄ちゃん替わり」として、ただ純粋に寄り添っていた頃のような、どこまでも優しく穏やかな光が宿っていた。
カレ自身、この場所に赴く時、その先に待つ運命を予期してはいなかった。
意図しない婚礼を強いられ、籠の鳥として光の世界へ去っていくアナタに、せめて最後くらいはわがままを許してあげたかった。そして内心、自分自身も――明日からは二度と触れることすら敵わなくなるアナタと、子供の頃のように、ただ二人きりで無邪気でささやかなひとときを過ごしたかったのだ。裏社会の泥にまみれた己の人生の中で、最後にひとつだけ、誰も汚すことのできない「純粋な想い出」を心に刻みたいという、切なくもピュアな願いだけを抱いて、カレはここにいた。
しかし、部屋の暖炉に火が灯ったとき、カレは息を呑んで立ちすくんだ。
振り返ったアナタが身にまとっていたのは、お屋敷での衣装合わせのまま、脱ぐことすら拒んでここまで着てきてしまった純白の白無垢。
織り込まれた吉祥文様が暖炉の炎に妖しく揺らめき、暗闇の中でアナタの姿を聖女のように浮かび上がらせる。それは、まだ誰の色にも染まっていない、アナタの純真無垢な心の証明そのものだった。汚れのない白。裏社会の血生臭さから最も遠い場所にあるその美しさは、あまりにも眩しく、そして残酷なほどに切なかった。
カレの硬質な瞳が、激しく動揺に揺れる。
(きみは、あの大企業の御曹司にふさわしい、光の世界の住人だ。俺のような泥にまみれた男が、その白を汚していいはずがない――)
必死に己に言い聞かせ、理性の鎖で心を縛ろうとするカレ。しかし、その白無垢の袖をきつく握り締め、アナタの瞳からは堪えきれなくなった涙がひとひら、頬を伝ってこぼれ落ちた。
「私、あの方のところへ行きたくない。……あなた以外の人の妻になるなんて、耐えられない」
「お嬢……」
カレがその涙を拭おうと伸ばした手を、アナタは逃がさずにきつく握り締めた。まだ誰のものでもない純白の衣をまとったまま、命を削るような熱い眼差しでカレに迫る。
「愛していない人に抱かれる前に、一度だけでいい。愛するあなたと、美しい思い出を心に刻みたい。お願い。今夜だけは――男としてのあなたを私にちょうだい」
涙ながらに迫るアナタの悲痛な訴えと、目の前で震える圧倒的な「白」の誘惑に、カレの身体が激しく強張る。
「子供の頃のような、綺麗な思い出のまま終わらせる」というカレの切ない願いは、愛しい人の覚悟によって、一瞬で狂おしいほどの情熱へと塗り替えられていった。
カレはきつく唇を噛み締め、それから――静かに、重い枷を外すように息を吐き出した。
その瞳から「若頭」の冷徹な光が完全に消え去り、熱を帯びたひとりの男の目がアナタを捕らえる。
「……ずるいな」
ぽつりともらした声は、いつもの他人行儀な敬語ではなかった。低く、少しだけ掠れた、幼い頃にアナタをあやしてくれた時のように甘く優しいタメ口。
カレの大きな手がアナタの腰を引き寄せ、三歩の境界線は跡形もなく崩れ去る――。