あらすじ
吉原に一つしかない大門を通り抜け、仲ノ町に足を踏み入れながら、カレは大きくため息を吐きました。
「会いたい――でも会いたくない」
物憂げに秋入梅(あきついり)の空を見上げながら、自分が初めて吉原に来た日のことを思い返しました。
***
カレが吉原に通い始めたのは桜の蕾が膨らみ始めた頃――
今や飛ぶ鳥を落とす勢いの大店の豪商から「ある遊女の絵を描いて欲しい」と依頼をされたのが始まりでした。
近々身請けする花魁の艶姿を残して欲しいと、美人画を得意とするカレに白羽の矢が立ったのでした。
廓(くるわ)遊びなんてこれまで縁のなかったカレは、気後れしつつも、普段、贔屓にしてくれる大旦那の頼みを断ることも出来ず――。
顔合わせをした瞬間、身請けが決まった花魁であるアナタの、あまりの美しさに、カレは固まってしまいました。
通人の大旦那はそんなカレの様子にガハハと笑いながら、「どうだ、なかなかの傾城だろう? ワシに愛想がないのは珠に瑕だが、、、妾宅(しょうたく)で直々に仕込めば、ちったぁ、おとなしくなるだろうさ……なぁ?」といって、アナタの頬をぐわっと鷲掴みにしました。
普段から人前を好んで、アナタのことをまるで心通わぬ獣や人形のように扱う大旦那の振る舞いに嫌気をさして、アナタはついと顔をそむけます。
「ふんっ、そうして虚勢を張っていられるのも今だけの話――艶絵が完成したら身請証文を楼主に差し入れてやる。さすれば、その贅沢な髪飾りと一緒に、跳ねっ返りもこれが見納め――かつてのハレ姿をさめざめと偲ぶ慰みくらいにはなるだろうよ!」
「――てなワケで絵師のセンセ、つつがなく頼むぞ!」そう言い残して大旦那はドカドカと本部屋を出ていきました。
その後も、緊張のあまり身動き一つとれないカレを見たアナタは、文机の引出しから小さな朱色の紙包みを取り出しながらカレに優しく話しかけました。
「絵師さん、ちぃと口を開けておくんなし……」
アナタは、なすすべなくポカンと開かれたカレの口に、紙包みから取り出した小粒をぽんと放り込みました。
わわっ…と顔を真っ赤にしながら後退ったカレは、放り込んだときにアナタの指が一瞬触れた自らの唇を手で覆いました。
「……あ、あれ…?甘い……ですね…///」
いたずらっぽく微笑みながら、アナタは取り出した包みの中身を見せました。
「金平糖でありんす。…やっと声が聞けんした」
そういいながら、笑みを浮かべるアナタを見て――カレは真っ赤なゆでダコのようになってしまいました。
四半刻(30分)ほどして漸く、金平糖の甘さとアナタの軽口に緊張がほぐれたカレは、心地の良い少し低い声で「奏」と名乗りました。
そして遠慮気味にアナタの目を見つめながら
「此度のお話(身請け)、誠に御目出とうございました」と、告げるのがやっとでした。
アナタは、「ちぃとも、目出とうござりんせん……」とうつむきながら
「アチキへの扱いを見なんし――。大旦那様の武左(ぶざ:威張り)は、もういりんせん!」
そう言われて、ただ目を伏せることしかなかったカレに
「けど……艶絵のことは、ほん(本当)ざんす。主(ぬし:アナタ)さんが描かれなんす絵だけが、アチキへの慰めでござりんす」
そう言いながら、アナタは赤い紙包みをそっと文机に仕舞いました。
カレはしばらく黙り込んだのち、ついと顔を上げ
「わかりました、では花魁の――本当の艶姿をここにもれなく写しとりましょう」
そういいながら、銀色に輝く絵筒の中から取り出した真っ白な巻き紙を広げ、とても柔らかな微笑みを浮かべました。
妓楼が客本位で強いる御作法にがんじがらめに縛られた「花魁」ではなく…アナタのありのままを残してさしあげたい
――カレの言葉がそんな風に聞こえて、アナタの心は少しだけ軽くなりました。
その日からカレの前でだけはアナタは自分らしく振る舞い、笑い、吉原に来てから初めての…いえ、長らく忘れていた穏やかな気持ちを思い出したのです。
仲ノ町にずらりと植えられている桜がまるで桃色の絨毯のように一面に咲いた頃。
何度目かのカレの訪問がありました。 見たことのない薄紫色の花を携えたカレは気恥ずかしそうに、
「その…桜は毎年見れると思うので…///」
まるで独り言のようにもごもごと「アケビ、という花なんだそうです…」と遠慮がちにアナタに手渡し、いつものように絵を描き始めました。
花瓶に活けたアケビがしおれてきた頃。
「これは、ハナミズキ…と言うそうです…」
頃合いを見計らうように今度は桃色の花を持ってきました。
言葉少なに静かに筆を走らせていくカレの気配を感じながら、アナタはなんとも言えない心地の良さを感じていました。
「ありがとうござりんす///」
それは、普段であれば爪の先まで意識を張り巡らせ言葉、表情、しぐさ、立ち振舞いのすべてで客を喜ばせているアナタにとって初めての感覚でした。
いつしか、カレは毎回花を持ってくるようになりました。
道中、どこかで手折ってくるのか、お世辞にも洒落っ気があるとは言えないものの、吉原から出ることの出来ないアナタを慮る、暖かな優しさを感じるものでした。
ある日――
「あ、えっと……すみません。今日は顔料を一つ忘れてきてしまいました――」
珍しく忘れ物をしたとつぶやき、困ったような笑顔を浮かべながらそそくさと荷物を纏めるカレを眺めるアナタは、この穏やかな時間を名残り惜しく感じていました。
***
なぜだろう。こんな嘘をついてしまうなんて……。
忘れ物なんて一つもしていない後ろめたさからそそくさと荷物をまとめつつも、カレは自分の行動に戸惑っていました。
何よりも絵を描くこと、描き始めた絵を完成させることが大好きで、ときには寝食すら忘れてしまう自分が”絵を完成させるのが惜しい”と思うだなんて。
「すみません――今日はなんだか筆が乗らなくて」
「思った通りの線が引けなくて――」
「絵具の発色がイマイチで――」
子供じみた言い訳と、次行くときはどんな花を持っていこうか、ということばかり考えるようになったある日。
道すがら、カレは花売に遭遇しました。
いつもは道中、目についた花を手折っていましたが、たまにはきちんとしたものを――
そう思い、花売りに声を掛けると、あれよあれよという間に両手いっぱいに優しい紫色の花がついた枝を抱えることになってしまいました。
「これ……えっと、その……気が付いたら沢山買わされてしまって……///」
「藤の花は――魔除けになるんだそうです……///」
真っ赤になりながらカレが抱えていた藤の大きな花束を見たアナタは、振袖新造(ふりそでしんぞう)時代に覚えさせられたこの花の花言葉を思い浮かべるとともに、その胸の奥にチクリとした痛みを覚えました。
おそらくカレは知らないであろう、この花が表す別の意味が――カレの本心なら良いのに……。
その瞬間、これまで見ないふりをしていた想いが、もう無視できないほどに大きくなっていることに、アナタは気づいてしまいました。
カレに「恋をしている――」と。
***
ため息とともに、視線をうろこ雲の空から元に戻したカレは、暗澹たる思いのまま、すぐ右側の引手茶屋に入り、その名を告げると、慣れた様子の若い衆(わかいし)にいつもの部屋へと通されました。
こうしてココに通うのはもう何度目になるだろうか――ぼんやりと考えながら、茶屋へ迎えに来た案内の禿にカレはついていきます。
「花魁。絵師さんが来んした」
禿が本部屋の主に声をかけるのを、カレは鬱々とした思いで眺めていました。
「大旦那に、いい加減仕上げを、と急かされて参りました……」
なまめかしもよく整えられたアナタの本部屋に通され、目の前に座しながらカレは言いました。
”絵を仕上げる――”
それはこの穏やかな時間の終わりを告げ、アナタが三十も年上の武左な大旦那の妾となり、新しくも暗い鳥かごの中で――おそらく、もう二度とこうしてふたりが会うこともなくなるということです。
「そうでありんすか……」
寂しげな表情を浮かべてそう呟いたアナタを、同じぐらい辛く、切なげに見つめ返すカレ。
(花魁の、この表情が自分と同じ気持ちが故であれば、どれだけ嬉しいことだろうか……)
絶対に伝えてはいけない言葉を飲み込みながら、カレは一輪の花をアナタに差し出しました。
「花魁…いえ、――あなたに花を渡せるのは……きっと今日が最後だと思うので……///」
泣き笑いのような顔をしながら、カレはアナタに奇跡のようなその花をそっと手渡したのでした。